M女


誠はアヤメの過去を知ることはできない




「いいよ」



「いや、いいよと言われても」
 


アヤメが軽く発した言葉に、誠は困惑していた。



「大丈夫。警察に言ったりしないから」



「いや、そういう問題じゃないだろう。どうしてアヤメを殴らないといけないんだよ」
 


アヤメは不満げに口をキュッと締めて誠から顔を背ける。



「私のこと、ホントは好きじゃないんでしょ」




「はぁ?」



 このアヤメの態度に誠は首を傾げるしかなかった。誠とアヤメが出会ったのは、春の学年が進級してからのクラス替えでクラスが一緒になり、アヤメに一目ぼれした誠が積極的に彼女に接触して付き合い始めたというごく普通の恋人だった。



 誠自身も、アヤメはただ顔の小さい華奢で可愛らしい明るい性格の彼女であるしか認識しておらず、まさか自分のことを殴ってくれなどということを言ってくるとは夢にも思わなかった。




「わかった。ハッキリさせよう。アヤメのこと好きじゃないならそう言ってほしい」



「はぁ? 好きだよ。好きだよ」




「ホントに? 信じられない」




「ど、どうしてだよ……」
 


アヤメはそれ以降口を閉ざした。誠はもうどうすればいいわからなかった。



「……それ以外じゃダメか? それ以外だったら何でもするよ」



「もういい!」
 


アヤメは吐き捨てるようにそう言って、その場を去ろうとする。




「ちょ、ちょっと待てよ」
 


そんな彼女を誠は慌てて追いかけて腕を掴む。



「わかった。どうすればいいんだ」



「だから、殴ってよ」



「……何処を?」



「何処でもいい」



「……じゃあ、顔はあれだから腹でいいか?」



「うん」



 その誠の言葉にアヤメは満足げに向き返り笑みを浮かべる。



「いいよ」
 


待ち構えるアヤメに、誠はため息を吐きつつ拳を作る。そして、彼女の腹を殴りつける。




「ウッ!」
 




普段、女性にしてはハスキーなアヤメの声では考えられないほどに、か細くて甲高い呻き声が彼女の口から発せられる。




「ごめん、痛かった?」



顔を歪めて痛みを堪える彼女に誠が優しく声を掛ける。




「もっとよ」



「え?」




「今のじゃ軽い。もっと殴って!」
 


強い口調でアヤメが誠に要求する。




「……おい……」




「私のこと、好きじゃないの?」




「わかったよ……」
 



そのアヤメの剣幕に誠は仕方なくまた拳を作り先ほどよりも強くアヤメを殴りつける




「ウッ!」
 



アヤメの柔らかい腹の感触。もしくは内臓の感触が誠の拳に伝わる。そして彼女は咽こみながらその場に倒れこむ。




「なあ。もう止めようこんなの、俺、嫌だよ」
 



嘆くように語り掛ける誠にアヤメは小さく首を振る。




「いや、こんなんじゃダメ。まだ」



「おい、いい加減にしろよ。どうしてこんなのをしたがるんだよ」



「私、暴力を振るわれないと愛されないから」




「え?」
 



そのアヤメの言葉に誠は声を失う。



「私なんか、本気で好きになってくれる人なんていないの。きっと誠だってしばらく経ったらただのサウンドバックみたいにしか私を思えなくなる。だから、今のうちに慣れておきたいの」




「はぁ? 意味がわからない」



「恋人も親も、私を殴る対象物以外に愛した人なんていないの。今まで付き合った人は全員そうなの」
 


DV。誠の頭にその言葉が浮かぶ。




「大丈夫だ。俺はそんな男じゃないし、そうならない」



「ウソ。信じられない」
 



誠はアヤメの壮絶な過去を知らない。知ることはできない。しかし、今のアヤメは知ることはできる。その彼女を知った時、誠は自然と彼女の身体を抱きしめていた。




「大丈夫。信じてくれ。それしか今は言えないけど信じてくれ。信じてくれるまでこの手は離さない」
 



アヤメは誠の腕の中で泣いていた。暫く二人は抱きしめ合っていた。